G1515 平和について
G1515. eiréné
完全さのうちに共に結びついた状態。正しくは、完全さ。すなわち、全ての主要な部分が共に結びつけられる時。(神の完全さの賜物)
平和の訳を当てているが、この語は、個人に対しても用いられていて、その場合には、当てはまりません。ですから、一律に英語訳でpeaceとされていることは、誤りです。ただし、転じて、平安と訳していますが、平安は、心の問題であり、本来の意味から離れています。
形容詞では、神の御心を知り、従うことでもたらされる完全さであって、名刺も同様に訳すべきです。
G1516. eirénikos
神の御心を知り、従うことでもたらされる完全さという神の賜物。
G1514. eiréneuó
神の賜物としての完全さの中に生きること。
G1518. eirénopoios
平和を作る者。→G1515から来ている。人を完全にすることを勇気を出して布告する人のこと。
マタイ
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
「平和をつくる者」という一つの語。人を完全にすることを勇気を出して布告する人のこと。
この平和は、完全さという意味です。その完全さは、神の言葉を受け入れ従う結果もたらされる神からの賜物としての完全さです。平和と訳した場合、争いのない状態を意味しますが、それは、完全さの中の一部の状態に過ぎません。
10:12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
→「平安」は、補足。原語にはない。
10:13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。
弟子たちの伝道の目的は、神の国が近づいたことに対する備えをするように命じることです。おいでになったメシヤを信じ、神の御心を行って御国において報いを受けることです。それは、心の平安ということが本質的な目的ではありません。
伝道での拒絶が伝道する者の心の平安になるように祈るのでしょうか。確かに平安であることは、幸いです。しかし、それは、些細なことです。
また、平和とも訳せますが、神との和解だけが目的ではありません。さらに、「その平和が自分に帰ってくるように祈る」ことは、伝道者が神との和解を得ることができるように祈るということになってしまいます。伝道者は、すでに神との和解を得ているのであり、矛盾します。
これは、山上の垂訓で語られているように、祈る内容は、神の完全さに到達することです。人が完全になることは、神様からの賜物です。語られた御言葉を受け入れ、完全なものにされます。拒めば、それは、その人のものになりません。語った者は、語った言葉にふさわしく、完全な者になるように祈るべきです。
10:34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。
平和の君としておいでになられましたが、平和ではなく、敵対関係をもたらすために来られました。
これは、人の霊的状態のことを言っているのではなく、社会現象について言っていますので、平和と訳せます。
マルコ
5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」
「安心して」→「全き者として」行きなさい。
直訳では、「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。全き者として歩んで行きなさい。鞭から離れすなわち罰を受けることなく全き者でありなさい。」
マルコ
9:50 塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」
「互いに」→それぞれの中で。他の人の中で。互い「との」平和ではない。
「平和に過ごす」→完全さを保つ。
塩は、永遠の契約の比喩です。塩が塩気をなくすというのは、永遠の契約に与っている信者が御国の報いを望んでいる者にふさわしくないような振る舞いをすることです。それにもはや味付けすることはできません。なぜならば、御国の望みほどにこの世のものから離れさせ、御心を行う動機となるものはないからです。
ですから、自分自身に関しては、御国を望む者としてそれにふさわしい歩みをすることが塩気を保つことです。
そして、互いの中で、完全さを保つのです。それが塩気を保つことであり、互いに対する証しとなります。
ルカ
1:79 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」
真理の光で照らし、歩みを完全なものに導く。
2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
「御心に適う人々にあるように」→「御心に適う人々の内にあるように」
一人ひとりの個人の内に完全さがあるように。すなわち、全き者であるように。
一人ひとりの内にある平和とは、平和が意味していることが相互の関係ですから、平和という訳は不適切です。また、この日本語訳のように「御心にかなう人々」の間にだけ平和があることが神の御心でしょうか。
ルカ
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。
2:26 そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。
2:27 シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。
2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
シメオンに対して、御言葉で告げられていたことは、彼を安らかに去らせるということでしょうか。そうではありません。キリストを見るまでは死なないということです。
ここでは、御言葉どおりにキリストを見るということが成就したことを言い表しているのです。御言葉の成就が完全であることを言い表しているのです。
「主よ、今こそあなたは、完全さの中のあなたの言葉により(あなたの言葉が完全に成就したことにより)、あなたのしもべを去らしてくださいます。」
ルカ
7:47 ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
7:48 そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
7:49 すると、ともに食卓に着いていた人たちは、自分たちの間で言い始めた。「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか。」
7:50 イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
彼女は、罪深い女でした。イエス様は、信仰によって救われたことを強調なさいました。彼女は、罪赦されるために来たのではなく、罪赦されたことを喜びとしてきたのです。それで、主を愛したのです。その点で、彼女に安心の必要性は、小さいです。ここでは、「安心」ではなく、彼女が、神の言葉を知り従うことでもたらされる神の賜物としての完全さの内に行きなさいと言われたのです。彼女は、その信仰による完全さを獲得したのです。
ルカ
8:48 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
ここでは、「安心」ではなく、彼女が、神の言葉を知り従うことでもたらされる神の賜物としての完全さの内に行きなさいと言われたのです。彼女は、その信仰による完全さを獲得したのです。
10:5 どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。
10:6 そこに平安の子がいたら、あなたがたの平安は、その人の上にとどまります。いなければ、その平安はあなたがたに返って来ます。
「平安」は、全きこと。伝道者の目的は、聞く者が伝道者の語ることを受け入れ、従うことによってもたらされる神の賜物としての完全さです。すなわち、神の御心を行う全き者を求めているのです。それが拒まれたとしても、語る者自身は、神の御心に適って事を行っていて、神の前に全き者とされます。
ルカ
11:21 強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。
「無事」欠けのない完全さ。
12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。
これは、社会における人間関係について記しています。その場合には、社会に完全さすなわち、分裂のない完全さとしての平和が適用されます。
ルカ
14:32 もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。
「講和」
敵との関係においての争いがない状態としての完全さを意味します。講和と訳していますが、停戦、和解、和睦、平和です。
「使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。」→「使者を送り、その彼(使者)は、平和を懇願します。」尋ねるは、特別な立場の人によって懇願するという意味です。
19:38 こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」
「平安」→「完全さ」。天において、神の御心の成就による完全さがあるように。
19:42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。
エルサレムが破壊されるのは、彼らの不信仰により、キリストを拒むことによるものです。彼らの元にこられたキリストを受け入れることで、完全な者とされるのです。彼らは、その道を知りませんでした。彼らの目から隠されていました。彼らがローマに滅ぼされないことよりも、彼らが神の前に完全な者として受け入れられことがはるかに大事なことです。
24:36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
「平安」→「完全さ」不信仰による恐れではなく、信仰に立って全くあることを祈られた。ユダヤ人を恐れる恐れがなくなることは幸いですが、それは、彼らが不信仰を脱する時に与えられます。信仰が不完全なのです。
ヨハネ
14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。
14:25 これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
イエス様は、神の言葉を守ることの価値を教えられました。父と主イエス様がともにおられる幸いを経験するのです。その御言葉を守ることに関しての不安にイエス様は応えられたのです。
話した言葉を聖霊が思い出させてくださるので、忘れてしまうことがないこと。
そして、御言葉を守る程度についての不安に対して、わたしの「完全さ」を与えると言われました。世が与えるものとは違うと言われ、世は、肉の努力による完全さです。しかし、肉のそれは、不完全です。そうではない完全さを与えます。イエス様の完全さです。
それで、心を動揺させる必要はないのです。また、恐れてはならないのです。
16:23 その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。
16:24 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。
16:25 わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。
16:27 父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。
16:28 わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」
16:29 弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。
16:30 あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」
16:31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
16:32 見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。
16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」
父は、弟子たちの祈りをイエス様を経由するのではなく、直接聞かれます。それは、父が弟子たちを主イエス様に対する信仰のゆえに愛しているからです。そのように、父が祈りを聞いてくださるとすれば、父の御心に適うことが聞き届けられて、私たちは、完全な者とされます。それは、大きな喜びです。さらに、イエス様は、十字架の苦難の中にあっても、父がともにおられるので一人ではないのです。父がともにおられるのであれば、御心を父がなさしめてくださらないでしょうか。これは、父の業であるからです。
これらのことを話されたのは、弟子たちがイエス様にあって「完全さ」を得るためです。父が愛して祈りを聞かれ、ともにおられるのです。御心を実現できないでしょうか。
世にあっては、苦難があります。これは、御心の実現を妨げる働きがあるからです。しかし、断固たる勇気を出すように言われました。それは、イエス様は、すでに世に勝ったからです。それは、ヨハネが手紙で記したように、聖霊の内住によって歩むことで、世に勝つのです。御言葉を行う聖さにおいて、教えに留まることに於いて、そして、兄弟を愛することにおいてです。
ヨハネ
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
イエス様が現れた目的は、明らかです。弟子たちを遣わすためです。まず、不信仰を取り除きました。それは、御自分が生きていることを示すことで解決しました。
そして、遣わすことを明言されました。
さらに、聖霊を受けなさいと言われ、この働きが聖霊によることを示されました。
そして、罪の赦しの権威を与えました。
そこで語られた「平安があなた方にあるように。」との言葉は、「完全さ」があるようにという意味です。
まず、弟子たちの恐れは、不信仰から来ていました。イエス様がよみがえることを信じていないからです。イエス様は、それに対して手と脇を示されて、御自分がよみがえられたことを明らかにされました。
次にもう一度、「平安があなた方にあるように。」と語られました。これは、彼らを遣わすにあたって、全き者であることを求めたのです。御言葉を宣べ伝える彼らは、御言葉を守る者でなければなりません。彼らに使命を与え、その力が聖霊によることを示しされました。そして、権威を授けられたのです。その永遠の命に関わる使命を授けるにあたって、彼らの心が平安であるかどうかは、些細なことです。彼らは、全き者であることが求められています。
20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
「平安があなた方にあるように。」と言われてから、トマスに手と脇を示されたのは、御自分がよみがえったことを明らかに示すためです。それは、トマスが不信仰であったからです。特にトマスのために現れてくださったのです。その時、トマスが平安であることが重要なのでしょうか。トマスが不信仰を続けず、弟子としての役割を担うことが重要です。彼は、不信仰という不完全さを捨てて、全き者になることが求められているのです。それは、弟子たち全員に求められることであるので、「あなた方に」と言われました。
使徒
7:26 翌日、モーセは同胞たちが争っているところに現れ、和解させようとして言いました。『あなたがたは兄弟だ。どうして互いに傷つけ合うのか。』
争いの解決で、互いの間の問題です。和解です。
9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。
「築き上げられる」は、補足です。直訳としては、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり教会は、平安を得た。」です。しかし、「平安」と訳されていますが、この時、平安を得たことが重要なのでしょうか。また、この時は、迫害の中にあったのです。このときではありませんが、パウロは、その働きの最中に平安でない状況もあったのです。
コリント第二
7:5 マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。
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このように、迫害の中で、全地の教会に安らぎがあることは、考えにくいことです。
教会は、「完全さ」を得たのです。その完全さについて、主を恐れていたこと、聖霊に励まされたことすなわち聖霊が豊かに働かれたことです。前進し続けたことは、神が用いたことが分かります。そして、信者の数か増えるという結果を見ました。このように、神様が教会を用いることができる状態を「完全さ」と表現しているのです。
10:36 神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
10:37 あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事柄をご存じです。
10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。
10:39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムで行われた、すべてのことの証人です。人々はこのイエスを木にかけて殺しましたが、
10:40 神はこの方を三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
10:41 民全体にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちに現れたのです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられた後、一緒に食べたり飲んだりしました。
10:42 そしてイエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました。
10:43 預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。」
「平和の福音を宣べ伝えられました。」→「イスラエルの子らに送られた言葉は、キリストによって平和を宣言した。」
御言葉の証しは、イエス・キリストです。生きた者と死んだ者の裁き主です。必ずしも平和を宣言したということではありません。
その御言葉は、人が全き者に変えられることを宣言するものです。単に神の前に罪が赦されることを伝えるだけではありません。
使徒
12:20 さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対してひどく腹を立てていた。そこで、その人々はそろって王を訪ね、王の侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方は王の国から食糧を得ていたからである。
敵対関係の解消→和解
15:33 二人は、しばらく滞在した後、兄弟たちの平安のあいさつに送られて、自分たちを遣わした人々のところに帰って行った。
「平安の挨拶に送られて」→「兄弟たちから、完全さの内に送られた。」この完全さは、神の働きが全うされたことを表しています。中途半端や、不完全な状態でそこを離れたのではなかったということです。
使徒
16:36 そこで、看守はこのことばをパウロに伝えて、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。さあ牢を出て、安心してお行きください」と言った。
「安心して」→「健やかで」 彼らは、鞭打ちの刑を受けていた。
24:2 パウロが呼び出され、テルティロが訴えを述べ始めた。「フェリクス閣下。閣下のおかげで、私たちはすばらしい平和を享受しております。また、閣下のご配慮により、この国に改革が進行しております。
平和 社会情勢なので、平和といえる。
ローマ
1:7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
恵みは、神と主イエスが好意によって備えた祝福です。それは、信仰によって受け取ることができます。そして、「平安」と訳されている語は、「完全さ」です。平安があることは、神様の御心の実現という観点からは、さほど重要性を持ちません。むしろ、神が備えた祝福が「神の御心を完全に全うする」完全な形で実現することこそ重要です。
2:10 善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
善を行うことに対しての報いは、栄光と誉という神からの称賛です。そして、報いとして「平和」は、難があります。善を行うことと、平和とは関連がないからです。これは、完全さです。善を行う人は、より完全なものになることを追求します。それに対して、神様は、完全な体を与えられます。肉には支配されず、完全に神の御心に適う者に変えられるのです。
3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
彼らの罪は、人の間の争いがない状態としての平和であることが損なわれているだけが問題なのではありません。義人がいないことの結論的な言葉であるはずです。「完全さの道を知らない」のです。それに続く言葉は、「神に対する恐れがない。」からです。
5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
「神との平和」→「神に対する(平和→完全さ)」前置詞「プロスG4314 to、toword」は、「~とのwith」を意味しない。
8:6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
「平安」→「完全さ」。死と対比されています。神の御心を行わないことが死です。御霊は、それとは逆で、神のみ心を完全に行う「完全さ」です。それは、いのちです。
12:18 自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。
「平和を保つ」G1514動詞。
「すべての人と」→「すべての人とともに、あるいは、一緒に」全ての人「と」ではない。
「平和を保ち」→「完全さを保ち」
ローマ
14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。
14:16 ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。
14:17 なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。
14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。
14:19 ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。
14:20 食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。
神の国について論じ、神の国の目的が示されています。それは、話の構成から重要な項目が取り上げられているはずです。彼らが神の国の価値の尊さを知ることで、飲食の価値に比べられないことを知るためです。
一、聖霊による義
これは、信者の歩みに関してのことで、義認ではなく、聖霊によって義の実を結ぶことです。
二、平和
これは、他者との関係でないので、平和は当たりません。信者の歩みに関して含まれていますが、ここでは、神の御心を行うは「完全さ」です。それこそ、人としてのキリストの栄光の主要な部分を占めています。
三、喜び G5479 恵みを知ることでの喜び
恵みは、神が好意によって備えられたものを信仰によって受け取ることで実現します。それは、私たちの立場であったり、御心を行うことで主と一つであることを知ることであったり、御心を行うことで永遠の報いを受けることです。それを味わい喜ぶことです。
これは、永遠のいのちを味わうことでもあります。
「平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」
追い求めることは、その「完全さ」です。そして、互いの霊的成長に役立つことです。自分のことに関して追求するとともに、他の人のために仕えるのです。「完全さ」と「霊的成長」は、自分と他者において同義です。平和ではないのです。
15:13 どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。
希望の神が備えているものは、永遠の報いです。その報いをいただけるように祈っています。
喜びは、神の恵みを知ることでの喜びです。その恵みとは、神が好意によって備えたものです。それは、信仰によって受け取ることができますから、「信仰による」と記しました。備えられた恵みは、御心を行うことで与えられる祝福です。
それで、「平和→完全さ」をもってそれを実現するように祈っています。完全に行うことで最大限の報いがいただけるからです。「信仰による完全さ」です。「信仰による」は、恵みと完全さにかかっています。
そして、御心を行うことは、聖霊の力によります。聖霊の力によって御心をことごとく行うならば、完全な者とされ、希望としての報いにあふれるのです。
15:33 どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。
パウロは使徒としての務めの内容を記しました。信仰の従順をもたらすためです。その役割に沿って、ローマの信者に求めたことは、完全になることです。それで、完全さの神といいました。完全さは、信仰の従順によってもたらされるのです。
16:20 平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
平和の神は、完全さの神ということです。私たちがサタンとの戦いの中にあるのですが、私たちを誘惑し神の御心を行わせなくしようと働いているのです。神は、平和の神ではなく、戦いに勝利するためにサタンを踏み砕くように働いてくださる神です。ですから、ここでの意味は、平和ではなく、完全さです。私たちがサタンの誘惑を受けて不完全なものとならないように、力を賜る方です。
その上で祈っていることは、私たちの主イエスの恵みです。すなわち、主が好意によって備えた祝福を私たちが信仰によって受け取ることです。具体的には、示されいることを信仰によって受け入れ、従うことで実現します。その時、主と一つであるいのちを味わうし、永遠の報いをいただきます。この点からも、「平和」ではなく、完全さであるのです。恵みの実現は、完全さの中に最大限に成就するからです。
コリント第一
1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
「恵み」と「平安」は、大概組になっています。「恵み」は、神の御心を受け入れ従うことによってもたらされる神の備えた祝福を獲得することです。それと深く関わる「平安」は、心の安らぎではありません。それは、祝福の獲得に関してほとんど関係ありません。さらに、心が平安であることは、恵みの実現という観点からは、価値がありません。
また、信者の歩みに関して「平和」は、対人関係での問題です。それも、ほとんど関係ありません。神が許された迫害などの問題の中で、神が与えていない平和がどうして来るでしょうか。これは、原意のように完全さということです。
7:15 しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。
夫あるいは妻が離れていくことは、「平和」でしょうか。喧嘩が絶えないというのであれば、平和になりますが、一方が信者である場合、喧嘩を続けるようなことはありえないことです。稀にあるかもしれませんが。
ここでも「平和」と訳されている語は、当たらないのです。分かれることが平和だと言っているのではありません。これは、「完全さ」という意味です。相手とともにいることで霊的な完全さが達成されるわけでもないのです。むしろ、信者とともにいたくないという者は、去らせたら良いのです。信者が求めることは、完全さであるからです。その目的のために生きるのです。
14:33 神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。聖徒たちのすべての教会で行われているように、
「平和」→秩序。混乱あるいは無秩序に対比されている。これは、霊的問題ではなく、実際的な秩序の話。
16:11 だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちと一緒に戻るのを待っています。
「平安」→「完全さ」
テモテの心が平安であることよりも大切なことは、彼が委ねられた役割を果たすことです。目的を果たす意味での完全さです。
コリント第二
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
13:11 最後に兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
ここでは、信者が完全になること求めています。その流れで、愛と「完全さ」の神と言っているのです。
「平和を保ちなさい」G1514動詞。「完全さを保ち」
喜びなさい→神の恵みを知って喜ぶこと
完全になりなさい→正常に働く状態に完全に合わせる(調節する)。彼らは、機能麻痺に陥っていた。例「網を繕う」
慰めを受ける→勧めを受ける
思いを一つにする→同じ考え、理解になる。
平和→完全になる。御心を知り、従うことで完全になること。
愛と平和の神→愛と完全さの神
ガラテヤ
1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
愛→アガペー
喜び→恵みを知っての喜び
平安→完全さ。御霊によってもたらされるものは、平安ではありません。信仰によって平安はいただけますが、それよりもはるかに重要な完全さのために働かれます。
寛容→忍耐
親切→本当の必要を満たす親切
6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
6:16 この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
新しい創造は、新しく生まれた者として、神の御心に従って歩む新しい人が造り出されることです。この基準に従って歩む人が神のイスラエルであり、神の選民なのです。これは、肉の儀式を求める人に対比されています。その人々に求めたのは、完全さです。神の御心を行う完全さです。平安ではありません。
そして、あわれみは、契約に対する忠誠です。すなわち、神が忠誠をもって契約を果たされることです。神の御心に従うときに、その契約は果たされ、豊かな祝福をいただきます。その契約の実現のためには、御心を行うことにおいて完全であることが何よりもふさわしいのです。平安ではありません。
エペソ
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
エペソ
2:13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
異邦人は、イスラエルとの間に結ばれた契約に関しては他国人で、キリトスから遠くはなれていました。しかし、今は、キリストから遠くはなれていた者が近い者とされました。キリストの血によったのです。
2:14 (なぜならば、)実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし(一つに造り続けています。そして)、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し(壊し続け)、
「平和」→損なわれることのない完全さ。
「私たち二つのもの」→イスラエルと異邦人。
キリストは、私たちの完全さです。イスラエルと異邦人が一つにされることは、ずっと続けられていることです。これは、一つの体を造ることが続けられていることを指しています。次節以降そこに至る過程が記されています。一つの体にするというのは、最後の段階ですが、それがはじめに示されています。その働きの目的を示すためです。
これが最後に置かれたのでは、文章を読む人は、一連の動作の目的がわからないので、文を理解しにくくなります。
ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し続けています。ご自分の体が打ち壊されることで、隔ての壁を打ち壊されました。
隔ての壁を打ち壊すことは一度肉によって実現したことですが、一人ひとりの信者について、それは続けられています。
2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました(廃棄し続けています)。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し(完全さを造り続け)、
律法を廃棄したことは、それぞれの信者に適用されることですから、今にいたるまで続いているのです。
そして、この二つと言われているイスラエルと異邦人を新しい一人の人に造り上げるのです。新しい一人の人とは、キリストの体である集会のことです。
一つの体を造り上げて実現しようとしいることは、「完全さ」です。キリストと同じような者とされた人々から構成されるのです。
2:16 二つのものを一つのからだとして(ともに一つの体として:一つの体にしたという動作ではない)、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました(滅ぼし続けています)。
この敵意は、神との間の敵意です。神と和解させられたのであり、イスラエルと異邦人が和解させられたのではありません。
十字架において裁きを下されたので、もはや罪に対する敵意はないのです。滅ぼすことが続いているのは、個々の信者において実現していることだからです。
2:17 また、キリストは来て(来続け)、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。
さらに、キリストは、来て福音を伝えました。そのことは、今も継続しています。その福音がもたらすものは、「完全さ」です。
この訳されている「平和」をイスラエルと異邦人の間の敵意の解消とする解釈がありますが、既に見たように、そのようなことではありません。今も宣べ伝えられている福音は、イスラエルと異邦人の間の平和をもたらすためのものでしょうか。異邦人社会においては、ほとんど意味をなしません。
また、もし平和であるとして、どのような平和なのでしょうか。
4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
その召しにふさわしい歩みとは、御霊による一致を熱心に保つことです。そのために必要なことも示しました。
・謙遜の限りを尽くし
謙遜。自分を主と比較して生み出される徳。これにより、内面との関係で、他に対して自分を高めることから守られるふるまいが生じる。主に完全に依存すること。自分の肉に頼らないこと。
私の内にあって主が働かれることを全面的に認めること。
・柔和の限りを尽くし
主の霊感と力付けによる柔和で、優しさと力の神的な均整の取れた柔和。信仰によってのみ働く。
・「寛容」→忍耐。
怒りを現す前に十分に待つこと。これにより、不正な怒りから生じる力(懲罰)の早すぎる使用を避けることができる。
・愛をもって互いに耐え忍び
愛は、アガペーです。
・平和の絆で結ばれて
「平和」→損なわれることのない完全さ。平和は、絆とはなり得ません。平和は、争いがなく結びついた状態を表現していて、それは、結果を表しているからです。ここでは、結果をもたらす絆について論じているであり、平和という訳は、不適切です。
互いにを一致させるのは、損なわれることがない完全さがあるときです。それが絆となるからです。人の努力によって実現されることはありません。御霊の一致なのです。損なわれることがない完全さは、御霊に満たされる時実現します。
これらは、いずれも私たちの肉の努力を求めているのではなく、キリストが私たちのうちにあって働かれることを信仰によって認める時、実現することです。
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
「平和」→完全さ。福音は、神の言葉全体を指しています。それがもたらすものは、「完全さ」です。義人において、義の実を結ぶことにおいて。
6:23 信仰に伴う、平安と愛が、父なる神と主イエス・キリストから、兄弟たちにありますように。
「平安」→完全さ。この手紙の主題は、神が全能の力を働かせて、信者を神のさまに変える働きです。完全な者になることです。
ピリピ
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
「理解」→「心」信者にとっては、神の御心を受け取る器官。
「心」→願いの決定。
「思い」→判断。思いから出てくる結論。
「全ての理解を超えた」とは、すべての神の御心の理解を超えたということです。私たちが受けとっている神の御心を超えているということです。「神の平安」は、それに勝ってます。ですから、これは、「平安」ではありません。神の御心の全てと平安とは直接関係ないからです。「平安」は、「完全さ」です。人が持っているすなわちすでに知っている神の御心の全部よりも、神の完全さは、勝っているのです。それは、祈りに対する答えとして与えられ、その働きは、心と思いを守ります。すなわち、願いの決定と判断です。これは、私たちの知っている知識を超えたことで、私たちの決定や判断が神の御心に完全に整合していればよいですが、必ずしもそうではないのです。御心を知ることにおいて不十分であることがあるし、御心を知っていても、そのとおりに判断できないことがあるのです。そこを神が祈りに対する答えとして守ってくださるのです。神の力の働きとしてそれが可能なのです。
それを守るのは、平安ではないのです。完全さなのです。神の平安と訳した場合、それは、神が平安であるという意味ではなく、神から与えられた平安という意味に解されると考えますが、私たちが平安であったら、判断が間違わないのでしょうか。そのようなことはありません。
4:8 最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。
4:9 あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
最後の勧めは、神の前に良いことです。それは、パウロから学んだものです。また、模範として示されたことです。それを実行することで、神はともにいてくださいます。ここでは、全ての御心を行うことが勧められています。特に二人の姉妹のあいだにあったような、不一致の問題だけではありません。全ての御心を行うことと、「平和」は、直接的な関係はありません。ここでは、「平和」ではなく、「完全さ」です。全ての御心を行おうとするならば、神はともにおられて、完全にそれを行うことができるようにしてくださるのです。完全さの神がともにおられるからです。
コロサイ
1:2 コロサイにいる聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟たちへ。私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
1:19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
「平和をもたらし」G1517動詞。
血による「平和」と和解は、別のものとして扱われています。血がもたらしたものは、贖いです。罪のきよめです。罪のきよめがなされたので、神との和解が成り立つのです。ですから、血がもたらしたものは、「平和」ではなく、神の前に咎められることのない「完全さ」です。
和解の最終的な目的は、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者とするためで、完全な者にすることです。そのようなものとして御前に立たせるという目的を実現されたので、御子は、第一の者なのです。
その実現の前提として、十字架の血によって「平和→完全さ」をもたらしました。その十字架は、神の満ち満ちたものをすべて宿らせた方です。偉大な方の血によってもたらされた完全さです。
3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。
3:11 そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
3:12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。
3:13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
「平和」→完全さ。
忍耐や赦しは、キリストの完全さによって支配されることでも、実現します。キリストと同じものになるために、キリストは内住して働いておられます。それがめされた目的であり、その心も、キリストと同じ完全なものにならなければならないのです。そうすれば、忍耐することも赦すこともできるのです。
3:16 キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
3:17 ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。
テサロニケ第一
1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたにありますように。
5:3 人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。
「平和」と「安全」は、「突然の破滅」と対比されている。ですから、戦いや争いのない状態としての平和とは異なります。破滅でない状態。完全さのうちに保たれている状態。戦争があったとしても、世界が滅びるような破滅ではないのです。
5:12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、
5:13 その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。
「平和を保つ」G1514動詞。
「また」を表す接続詞は、原語にはありません。この二つの節は、ひとまとまりの勧めになっています。指導し、訓戒する人たちを重んじ、深い尊敬を払うことを命じています。それと共に、そのような目的に従って、後半の記述があります。
「お互いに」→「あなた方の中で」
「平和を保ち」→「完全さの中に生きなさい。」完全さは、神の賜物で、実際の誠実を表しています。すなわち、御心を知り、従うことでもたらされる完全さです。訓戒と指導を受けた者が、その中に完全さを持って生きることです。すなわち、教えられたことに従って生きることです。
あなた方の中でとは、訓戒と指導を受ける集会の中ということです。
5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。
ここでの「平和」は、後半の祈りの内容と対応していて、「完全に聖なるものにする」ことです。
テサロニケ第二
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
3:14 もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。
3:15 しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。
3:16 どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。
「平和」→完全さ。言葉に従わないような状態でなく、常に言葉に従う完全さが与えられるように祈りました。言葉に従わない人に対する処置について述べましたが、それは、最悪の状態であって、あなた方は、御言葉に従う完全な者であるように祈ったのです。
テモテ第一
1:2 信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。
恵みは、神が好意によって備えておられる祝福で、信仰によって獲得できます。
それに続くあわれみは、契約に対する忠誠です。神に示されたことを受け入れて従うことに対して、神が忠誠をもって契約を果たすことで、それを受け取れますようにということです。
そして、最後の「平安」は、そのような観点からはほとんど価値がありません。その人の心が平安であったとしても、神の備えた祝福を受け継ぐことには、何の関係もないからです。これは、完全な聖さのことです。すなわち、神の御心を行って祝福を受け継ぐという契約忠誠を受けようとするならば、それを最大限に受けるように完全であることを祈っているのです。
2:1 そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。
2:2 それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。
世との関係についての言及であり、世に対する証しに重点が置かれています。ですから、これは、「平安」ではなく、「平和」です。世の争いに巻き込まれない落ち着いた状態です。
テモテ第二
1:2 愛する子テモテへ。父なる神と、私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。
2:22 あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
これは、清い心ですなわち混じり気のない心で主を呼び求める人たちが追い求めるものは、霊的高嶺です。そのような観点から勧められている項目の中で、最後の「平和」は、異質です。義は、神様の御心を行うことでの義です。信仰は、神の御心を受け入れることです。そして、愛は、神様の御心を行う動機で、これがなければどのような行いも意味がありません。これら三者は、独立した項目です。平和は、人相互の関係で、人の行いの正しさに含まれるものです。「平和」は、完全な聖さを表し、前三者の程度について示しています。義と信仰と愛において完全であることを勧めているのです。
テトス
1:4 同じ信仰による、真のわが子テトスへ。父なる神と、私たちの救い主キリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。
ピレモン
1:3 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
ヘブル
7:2 アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。
「平和」→完全さ。義と共に、完全さをもたらされる方。
ヘブル
11:31 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。
「穏やかに」→損なわれることのない完全さのうちに迎え入れた。ラハブの態度が穏やかであったことではなく、偵察が何事もなく受け入れられたこと。
12:11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。
「平安の」実。G1516形容詞。
原意は、神の御心を知り、従うことでもたらされる完全さという神の賜物。
義は、平安の実か。そうではない。平安が義を生み出すことはない。義という完全な賜物が与えられるのです。すなわち、訓練を受けることで、御心を受け入れ、従うように変えられるのです。そうして義の実を結ぶのです。義は、「平安の実」の説明で同意義です。平安では整合しません。義は、神の御心を行うところにあり、完全に行うことでができるようになるのです。
12:14 すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。
すべての人「との」→すべての人と一緒に
他の用法は、「とともに」です。もし、「平和」の訳が正しいとすれば、「すべての人と一緒に平和を追い求め」となります。「人との」にはなりません。これは、「平和」と訳されている語の訳語の誤りからきています。この語は、「完全さ」を意味します。信者に関しては、「神の御心を行なって与えられる完全さ」のことです。「すべての人とともに完全さを求め、」となります。
13:20 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、
13:21 あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。
「平和の神」ではありません。平和は。他者との関係を表す語で、信者の歩みに関してそのようなことは、ごく一部です。実際勧めの中には、その事に関する勧めは記されていません。平和では整合が取れないのです。
ここでは、原意のように「完全さ」がふさわしいのです。完全な聖さです。その方が信者に働いて御心を行わせてくださるのです。その際、神に関しては、「主イエスヲ使者の中から導き出された」神として紹介されています。使者の中からの蘇りは、肉に死んだ完全な状態を表していて、信者の歩みに適用されています。すなわち、神は、信者を完全なものにしようと働かれるのです。ですから「平和」と訳されている語が「完全さ」という意味であることは、整合しています。
そして、神は、キリストを通してその働きをなさいますが、そのことに関連して、キリストは、血の契約による大牧者として紹介されています。大牧者であることだけでも尊いことであり、羊を省みる幸いな働きであることが分かります。その上に、血の契約について取り上げられていて、その大牧者の愛は、血の契約をもたらすほどのものであることが示されていて、愛の偉大さが表されています。
13:22 兄弟たちよ、あなたがたにお願いします。このような勧めのことばを耐え忍んでください(留まってください)。私は手短に書いたのです。
勧めの言葉を耐え忍ぶようなことはありえない。よほど肉的な信者であるならば、そのようなこともあります。正常な信者であるならば、そのような言葉を聞いたならば、信仰によって受け入れ、従おうとするのです。
原意は、耐え忍ぶ意味があります。しかし、信者が勧めを受ける状況では、その訳は当たらないのです。原意にも、信者に関しては、留まるという意味があります。
ヤコブ
3:17 しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。
知恵は、神の言葉に従うこと。
「平和で」G1516形容詞。
神の御心を知り、従うことでもたらされる完全さという神の賜物。
平和→御心を行う完全さ
優しく→公正。G1933 律法の精神を保つために、過度に厳しい基準とならず緩やかにすることでの真の公正。
協調性があり→よく教えられている。すなわち、神の言葉で「よく説得されている」。よく神の言葉に従うようになっている。
あわれみ→契約に対する忠誠。すなわち、神の言葉に対する誠実。
良い→信者の人生に於いて、信仰によって、神に発し、神によって力づけられること。善悪の善を表しますが、信者に関しては、神の御心の実現としての善です。良い実とは、神の御心が行われて結ばれる実です。
偏見がなく→不確実さ、曖昧さがないこと。
偽善がなく→偽善がないこと、偽りのないことです。偽りのない振る舞い。
3:18 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。
→義の実を結ばせる種は、完全さを追求している(つくっている)人々によって、完全さの内に蒔かれるのです。前節に上げられている「平和」すなわち完全さの部分について、特に取り上げて記しています。それは、あらゆる点において完全でないと、義の実を結ばせることはできないからです。
ペテロ第一
1:2 父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
私たちが受ける聖別と血の注ぎかけすなわち罪からの聖め(罪人が罪を赦されていわゆる救いの立場を持つことではなく、信者が罪を赦された者として罪を犯さない歩みをすること)は、神の予知によります。そのことについては、どの程度御心に適う状態になるかは、神はご存知ですが、それを与えようと働いておられるのです。そのために選ばれたのです。
そのような人たちに対して、恵みと平安を祈りました。この恵みは、信者が聖められて、資産としての報いを受け継ぐことです。それは、神が予め用意しておられたことで、信仰によって受け取ることができます。具体的には、御霊による聖別と血の注ぎかけなのです。それが、「ますます」豊かにされるように祈っていて、それは、前半でそのために選ばれている人達に向けられて祈られているのです。ですから、後半の恵みと平安は、前半の内容を受けてのものです。その中で、「平安」は、異質で、ここには、整合しません。その恵みの実現に関して、平安であることはほとんど関係ないからです。これは、完全さです。恵みの実現と完全さが豊かにあることなのです。
3:10 「いのちを愛し、幸せな日々を見ようと願う者は、舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。
3:11 悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。
3:12 主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する。」
兄弟姉妹との間の事柄に対する勧めに続く言葉ですが、この聖句の引用は、内容としては、独立していて、善を求めることを教えています。
いのちとそれが続く幸せな日々は、御心を行うことで与えられます。それは、悪を離れて善を行うことで得られます。それに続けて「「平和」を求め、それを追え。」と命じられています。ですから、この「平和」を求めることは、善を行うという歩みの全体に関わることです。ここに、個々の善行の一つである「平和」を求めることが来るのは、整合しません。平和を求めることは、それほど本質的なことでしょうか。平和は、対人関係の中で争いがないという信者の歩みに関してはごく一部のことです。ここでの意味は、平和ではなく、完全さです。善を行うのですが、それにあたっては、完全さを求めよと命じられているのです。最大限に追求することを求めています。
続く節で、主の目が注がれるのは、正しい人に対してです。話の流れとしては、悪に対して善行全般についての話なのです。平和という特定の善行についてではありません。
5:12 忠実な兄弟として私が信頼しているシルワノによって、私は簡潔に書き送り、勧めをし、これが神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みの中にしっかりと立っていなさい。
5:13 あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会と、私の子マルコが、あなたがたによろしくと言っています。
5:14 愛の口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。
神の恵みとして手紙で全ての勧めをしました。恵みは、神が好意によって備えた信者のために祝福です。それは、信仰によって受け取ることができます。すなわち、勧めの言葉を行うことでその報いとしての資産を受け継ぐのです。そして、最後のすすめとして、愛の口づけによる交わりと、完全さがあるように祈ったのです。勧めの趣旨からすれば、勧めを行って豊かな報いを受けることこそ願うところです。それが実現するように祈っています。
ペテロ第二
1:2 神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
神と主イエスを知ることで、私たちは、御心に適う者に変えられるのです。私たちが神の御心を行うようになるからです。その延長上に恵みがあるように祈っています。それは、神が好意によって備えたものですが、信仰によってう入れて従うことでその人に実現します。いのちを経験し、資産としての報いを受け継ぐのです。その恵みがますます豊かにあるように祈りました。それと同列に置かれている「平安」は、異質です。これは、完全さということです。その恵みが最大限に実現することを求めています。
3:14 ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。
「平安」→完全さ。平安は、しみも傷もない者という形容を受けたもので、そのように形容されるものは、完全さです。しみも傷もない完全さです。そのような状態を見出していただけるように、すなわち完全な者になるように努力するのです。
ハネ第二
1:1 長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。
1:2 真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。
1:3 父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。
恵みは、神の用意しておられる祝福の賜物。あわれみは、契約に対する忠誠で、神がその約束通りに実現されること、そして、平安は、「完全さ」です。その完全さは、真理と愛のうちにとあるように、真理と愛に関して完全であることを言っています。真理は、教えです。愛は、教えの実践です。ですから、神の御心にかなった教えを受け入れ、それを実践し、しかも、完全なものとして真理の教えに適い、それを行うことで、恵みが実現するのです。
ヨハネ第三
1:15 平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たち一人ひとりによろしく伝えてください。
ヨハネは、「平安」を全き状態として記しています。このことは、次の成句と対応しています。
ヨハネ第三
1:2 愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。
1:3 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。
--
たましいの幸いは、真理に歩んでいることです。ヨハネは、そのほかのあらゆる点で幸いを得るように祈っています。それは、体の健康も含まれます。それら全部が全き状態であることは、「平安」と訳されている語「完全さ」によって表されています。
ユダ
1:2 あわれみと平安と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
あわれみは、神の契約に対する忠誠です。神の側にも、人の側にも使われます。人の側の場合、契約に対する誠実と言えます。
平安は、この場合完全さです。ユダは、戦うようにこの手紙を書いています。
そして、愛です。
これらのことは、ユダ書の次の箇所と対応しています。
ユダ
1:20 しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。
1:21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
--
「あわれみ」は、「イエス・キリストのあわれみ」に対応します。キリストが忠誠をもって契約を果たされ、永遠の命に導くために働かれます。そうであるならば、契約に対して誠実をもって従っていくのは当然です。
「平安」は、完全さですが、「自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。」ということに対応しています。それは、神の御心にかなった完全さを求めることです。
「愛」は、「神の愛のうちに自分自身を保つ」ことです。神の愛に応え、神を愛し、人を愛するのです。
黙示録
1:5 また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、
1:6 また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。
挨拶の言葉のように記されている「恵みと平安」は、単なる挨拶として記されているのではなく、文章の流れからは、私たちにそれが与えられることが真に願われて記されています。この恵みと平安は、非常に重いものです。それは、存在者である父と御霊とイエス・キリストから来るようにとあります。
「恵み」は、利益共有を表し、神の行為によります。人の場合、利益は、一方的に与えられるものではありません。神様が示した御言葉を信じることで神に栄光を帰し、人も救いや報いを受けるのです。御心を行うことで、神に栄光を帰し、人は栄光を受けるのです。恵みは、無条件に、一方的に与えられる利益を意味していません。
ここでは、キリストによる御業の私たちに関する目的が示されています。それに相応しくなることが求められています。まず、恵みに応答することです。
そして、平安は、贖いの目的からはずれています。心が穏やかであることが、私たちの罪が赦され、解き放たれて、王とされ、祭司とされた目的に沿ったことでしょうか。平安であることは幸いですが、恵みとともに記されていることで、平安と訳された原語の本来の意味である「完全さ」を意味しているのです。
6:4 すると別の、火のように赤い馬が出て来た。それに乗っている者は、地から平和を奪い取ることが許された。人々が互いに殺し合うようになるためである。また、彼に大きな剣が与えられた。
互いに殺し合うという戦いの状態と対比して平和。